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- 古見村(近世)とは
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古見村(近世) 江戸期~明治11年の村名尾張国知多郡のうち知多半島北西部,伊勢湾に面する天保年間と推定される村絵図に東西25町・南北9町半とある尾張藩領横須賀代官所支配全村蔵入地村高は,「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに934石余,「旧高旧領」1,289石余「寛文覚書」によれば,本田の概高1,287石余・反別75町余(田57町余・畑17町余),ほかに新田概高2石があり,家数140・人数724,牛馬54粕池は「寛文覚書」には記されておらず,のちに築造されたものと考えられるこの粕池を谷頭の水源として美濃川が谷の中央を流れる主要な道路は浜辺を通る大野浜道,北の台地に沿って谷頭の粕池へ抜ける道,ならびにその中間の丘を斜めにぬって南へ下る大野本道である村絵図に「成瀬半太夫様下屋敷」とあるのは,当村が宝暦4年から犬山城主の庶流にあたる成瀬織部の給知であった関係によるものテルクニ親王塚は,後花園天皇の皇子と伝えられる邦親王をしのんでつくられた「尾張名所図会」にも見える一本松は,鶏松ともいわれて航路の目標とされ,明治初年村人により御岳社が勧請される社寺は神明社,真言宗妙楽寺・福生寺,曹洞宗竜雲院福生寺は,「寛文覚書」には真如坊とある明治11年新知村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
古見村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」